掲示伝道(10月no1)
「何が私を苦しめているのか
自分が握りしめている その物差しです」坂木 力
日頃、誰もが悩みや苦しみ、哀しみ、怖れなどを抱いて生きているのではないでしょうか。なぜなら、原因は外にあるのではなく、私の思いにあるからです。
釈尊は私たちの存在は縁起的存在であると目覚められました。それは、私という存在があらゆる縁によって起こっているということです。そうであるからこそ、私たちの存在は諸行無常であり、諸法無我なのです。
しかし、私たちはその我が身の真理をありのままに受け取ることができません。いつでも「自分、自分」と言って、自己中心的な思いの中でしか生きられないのです。その話が思いをここでは「物差し」と言っているのです。そして、そのような物差しを持ってしか生きられないからこそ、私に起こるすべての出来事は一切皆苦、すべて苦しみとなるのです。
その我が思い、物差しを仏教では煩悩と言いますが、煩悩の中心は無明です。つまり、真実に暗いということです。真実に暗いが故に貪欲(貪りの心)、瞋恚(怒りの心)などを起こしているのが私たちの存在です。そのような私たちを凡夫と言いますが、親鸞聖人は、
「凡夫」というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず
とおっしゃっておられます。
物差しですから、何でも自分の思いに取り込んで、善悪、損得、美醜、優劣等々と比べ、はかるのが私たちだということです。他者と比べ、優れていると思えるときは優越感に浸り他者を排除し、劣っていると感じたときは、劣等感に苛まれ自分を排除しようとする。そのようにして、自分の思いで自分を苦しめているのが私なのです。
そのような私たちに対し、「一如の平等のいのちに目覚めよ」と南無阿弥陀仏のお念仏が私たちに届けられているのです。南無阿弥陀仏とは阿弥陀如来の願いです。その願いに耳を傾けて歩むことこそが、いのちそのものから願われているのです
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