掲示伝道(3月no2)
「 浄土とは言葉のいらぬ世界
人間の世界は言葉の必要な世界
地獄は言葉が通じない世界 」 曽我量深
お彼岸の時期となりました。彼岸とは言うまでもなく、浄土を表す言葉です。
さて、この浄土とは、『阿弥陀経』には
是れより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界有り。名づけて極楽と曰う。
と説かれています。この娑婆世間(此岸)から西の方角に十万億という遥か彼方に極楽(浄土)という世界があるというのです。
お経というものは、すべて物語として説かれていますので、あたかも西の方角に浄土という世界があるかのように受け取ってしまいますし、亡くなってから旅立つ世界というように受け取っておられる方もいらっしゃることでしょう。
しかし、曽我量深師は「浄土とは言葉のいらぬ世界」とおっしゃっており、それに対して「人間の世界は言葉の必要な世界 地獄は言葉が通じない世界」とおっしゃっておられます。このお言葉について考えてみると、浄土や地獄というのは、決して亡くなってから旅立つ世界ではないのではないでしょうか。
浄土とは真理そのものの世界のことです。私たちはその真理に暗いがゆえに苦しみの世界、地獄を自らで作り出して生きているのでしょう。言葉の通じぬ世界とは、どこかにある世界ではなく、また死んでから往く世界でもなく、ただいま、この瞬間の〈私〉が生きる世界が地獄なのではないでしょうか。自己中心的に生きるのが私たちです。どこまでも、自らの思いが中心ですから言葉も通じないのです。
一方で、人とは言葉を必要とする世界です。仏教の苦しみの世界は「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」の六道で表されます。いずれも苦しみの世界ですが、唯一、仏さまの教えを聞くことができる世界だと言われています。
仏さまや浄土とは真理そのものですから、直接私たちが触れることはできません。そのような私たちのために、仏さまは教えとなって、南無阿弥陀仏の名号となって私たちにはたらきかけてくださっているのです。この教え、お言葉は、私たちの思いを超えた、私たちの思いを破るお言葉です。そのお言葉に触れるということは、そのお言葉にまでなった仏さまの願いを聞くことでもあります。
地獄をつくり出し迷い苦しむ私のためにこそ、仏さまの教えが言葉となって届けられ、どうか真実に目覚めてほしいとはたらきかけてくださっているのです。それは同時に真実に背き続けている私の相を教えられることでもあります。そのように教えをいただいてこそ、私たちは真実に出遇うことも、人と成ることもできるのではないでしょうか。
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