掲示伝道(9月no2)

「助け合わねば生きていけないお互いが、害し合わねば生きていけない。

 そこに人間業の悲しみがある」金子大榮師


 私の存在とは縁起的存在です。縁起的存在とは、自分という存在にさまざまな縁がついて生きているということではありません。無数の縁が私であるということです。ですから、私という存在はたった一人独立して存在するのではないのです。

 そうであるからには、助け合わねば生きていけないのが人間の事実です。にも関わらず、私の思いはいつでも自己中心的であり、自分の思いに叶うときは受け入れるけれど、叶わないときは他者と争い、害し合うのです。

それは人間存在そのものの悲しみです。人間の歴史は常に争いとともにあります。21世紀となった現代においても、争いが尽きることはありません。そのような人間業を悲しんで、阿弥陀如来は私たちに「真実に目覚めよ」とはたらきかけてくださっているのです。そのはたらきを如来大悲というのです。

その大悲によって呼びかけられる阿弥陀如来の声なき声、願いこそが南無阿弥陀仏のお念仏なのでしょう。今こそ、お念仏申す生活のなかに、我が身を問われなければならないのではないでしょうか。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です