掲示伝道(5月no2)
「生活の中で 念仏するのではなく 念仏の上に 生活がいとなまれる」和田稠師
南無阿弥陀仏のお念仏とは、何も呪文ではありません。ですから、ただ称えていれば、効力があるものでもありません。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀如来の生きとし生けるものすべてを救い遂げたいという本願、願いなのです。ですから、お念仏申すことを通して、阿弥陀如来の願いを聞くことが大事なのです。
その願いは、まさに「いま・ここ・私」にはたらきかける願いです。ですから、特別な環境、例えばお寺にお参りにいったときだけとか、ご法事のときだけ称えるものではなく、また、困ったとき、辛いときにだけ称えるものでもないのです。日頃の生活のただ中でこそお念仏申し、自己を教えられることが大事なのです。
しかし、更に和田稠先生は、「生活の中で念仏するのではなく、念仏の上に生活がいとなまれる」のだとおっしゃいます。「生活の中で念仏する」というのは、自分の思いによって称えられる念仏、つまり何か念仏が特別な行為になってしまうということなのでしょう。
そうではなく、「念仏の上に生活が営まれる」というのは、こちらの意識を超えて、常にはたらきかけられる南無阿弥陀仏、つまり阿弥陀さまの本願によって生活させていただくということなのではないでしょうか。つまり、いつでも、どこでも、常に南無阿弥陀仏が私の生きる中心になって歩ませていただくということではないかと思うのです。
なかなか難しいことのようにも思えますが、私が教えを受けた竹中智秀先生は、「わかってもわからんでも、念仏申しなさい」とおっしゃっておられたことが思い出されます。頭で「念仏とは何か?」なんてことを考えて念仏申すのではなく、生活のただ中で、とにかくお念仏申すことから始めることが何よりも大事なことではないかと改めて教えられます。
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