掲示伝道(4月no1)

「悪人がいくら害悪を及ぼすからといって

          善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない。」ニーチェ


 私たちは勧善懲悪の価値観を強く持ち、いつでも自分は善人の立場に立って他者を裁こうとします。社会には確かな善悪の二つがあるかのように思い込み、善人には居場所が与えられ、悪人には居場所が奪われていく。しかし、それを判断するのは一体誰なのでしょう? その基準とは何をもとに判断しているのでしょう。

 それは、私の握りしめている「思い」です。私にとって善か悪かということです。ですから、いつでも自分の都合でコロコロ変わっていくものです。そのような私の思いで善人と悪人を分け、自分は善人の立場に立って他者を裁くようなあり方、見方、考え方こそが、人と人との関係性を絶ち、争いを生むのではないでしょうか。

 親鸞聖人は『歎異抄』のなかで

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわこと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします

とおっしゃっておられます。何が善で何が悪なのか。何が真実で何が不実なのか。知っているのは阿弥陀さまだけだとおっしゃっておられます。そして、私が私の思いを握りしめて生きている世界は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわこと、まことあることなき」世界だとおっしゃっておられます。そのような私に真実と触れる唯一の手がかりこそが南無阿弥陀仏のお念仏なのでしょう。

 私の思いを依り処にして地獄を造って苦しみながら生きるのか、それとも仏法を、念仏を依り処にして真実に生きたいと願って生きるのか。南無阿弥陀仏のお念仏から私たち一人ひとりが問われています。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です