掲示伝道(4月no2)

「 癌だから死ぬのではない 生まれたから死ぬのである 」池田晶子


 私たちは、死に際をとても大事にする存在なのではないでしょうか。どのように亡くなっていったのかをとても大事にします。それは、「死」を私たちが受け入れるための理由付けなのでしょう。

 池田晶子という哲学者は、40代なかばで癌で亡くなられましたが、闘病中に「癌だから死ぬのではない 生まれたから死ぬのである」という言葉を遺しておられます。当たり前のことのようですが、私たちは本当にこのような我が身の事実を引き受けて生きることができているでしょうか。

 この生を授かったからには、誰もがみな平等に死していく身である。そのようないのちを生きているにもかかわらず、その事実を都合の悪いこととして目を背けて生きているのではないでしょうか。そのような私たちの生き方を竹中智秀先生は「死のない生」だとおっしゃいました。そして、だからこそ私たちは「空過の生」を生きるのだと。空しく過ぎ去っていく生だということです。一瞬、一瞬有限の尊いいのちをいただいて生かされているにもかかわらず、そのいのちをありのままに感謝し、いただいて生きることができないのが私です。

 そのような私に空しく過ぎない生を与えてくださるものこそがお念仏なのです。天親菩薩は『浄土論』のなかで、仏功徳の最後に不虚作住持功徳として次のようなお言葉をのこしてくださっています。


  仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者無し。

  能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ


 阿弥陀さまの本願に出遇ったものは、空しく過ぐるものはいないのだと。その本願と、私はどこで出遇うことができのかというと、まさに南無阿弥陀仏のお念仏をとおして出遇うのです。

 ですから、私たちにとって大事なことは念仏申すことをとおして、阿弥陀さまの本願の御心を聞かせていただくことなのです。だからこそ浄土真宗では仏法聴聞をとても大事にするのです。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です