掲示伝道(1月no2)
「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求むべし」松尾芭蕉
先達に学ぶということは大事なことです。しかし、その学ぶときに、私たちは遺してくださった功績や結果を求めてしまうのでしょう。
仏法聴聞においても、同じなのではないでしょうか。親鸞聖人を聖人化し、親鸞聖人のように生きることが正しく、親鸞聖人が遺してくださった教え、言葉だけが正しいとするのが私たちの聴き方になっていないでしょうか。
それは縦割りの構造になっています。一番上に立つ宗祖が絶対で、その教えを完成されたものとして、それを後々の世のものが学んでいくという姿勢です。しかし、浄土真宗の教えは横並びの教えだと言います。釈尊をはじめ、七高僧、親鸞聖人も私も、みな阿弥陀さまの教えによって救われるべき存在という意味で横並びであるといただきます。ですから、目の前におられるのは阿弥陀さまだけです。
釈尊は釈尊が生きられた時代など、さまざまな業を背負われた中で阿弥陀さまの法に目覚められました。七高僧も親鸞聖人も同じです。ですから、大事なことは、釈尊に、親鸞聖人にそのように説かせたものは何だったのかということが大事なのです。そして、それが私にとってどういう問題なのかが大事なのです。
そのことが顕かにならなければ、教えを聞いてもHow toにしかなりません。つまり、知識です。知識では人は救われないのです。親鸞聖人が教えを求め、出遇われた背景、問題がそこにはあります。その根本にあるものをこそ、私たちは親鸞聖人に、教えに、尋ねなければならないのではないでしょうか。
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