掲示伝道(4月no2)

「 学ぶ心あれば 万物みな教師なり 」


 私たちとは、生まれてこの方、さまざまなことを学び、経験し、それら知識・経験を蓄えて自己形成して生きています。しかし、学ぶこと、経験することは大事なことですが、学べば学ぶほど、経験すればするほど、人間は自己を固め、その自己に執着し、自己を正当化して生きようとするのではないでしょうか。

 私たちは「当たり前」とか「常識」という言葉をよく使いますが、その「当たり前」や「常識」も、自我意識、自己の相対分別の眼によって作り出した「モノサシ」でしかありません。そのうち、学ぶ上でも「あんなこと学んでも意味がない」といった態度になってみたり、学んでも自分の思いの中でしか受け取ることができなくなるということがあるのではないでしょうか。それでは本当に学んだことにはならないのでしょう。

 何でもわかったつもりになって生きるのではなく、あらゆるものから常に我が身の存在を知らされる、教えていただくことこそが大事な態度なのではないでしょうか。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です