掲示伝道(3月no2)

「他を咎めんとする心を咎めよ」清沢満之師


 科学技術の発達によって情報化社会となり、私たちの生活はとても便利になりました。私がサラリーマンをしていた20年ほど前、ようやくパソコンが普及し、メールなどで取引先とのやり取りが少し始まったような時代でした。その頃から比べても、考えられないほど短期間で、信じられない発展を遂げています。今では、小さい子どもまでスマートフォンを扱うような時代となっています。

 しかし、便利になった一方で、非常に息苦しい、生きづらい世の中になったと感じるのは私だけでしょうか? 常に必要以上の情報が溢れ、またその情報に私たちは敏感に反応するようになってしまいました。

 テレビや雑誌、インターネットでは大小問わず、あらゆる犯罪やゴシップ記事が流れ、あっという間に拡散してしまう。そのことで、人々は異常な反応を示し、自らは正義に立って他を咎め、社会から抹殺するような言動を取る。それは犯罪や道徳に反することに限ったことではありません。SNSなどを通じて、自分の考えに合わない人間に対して、平気で誹謗中傷を書き込む。そのことをまたメディアは面白がって取り上げる。本当に恐ろしい世の中になったと感じます。

 そもそも、このような問題は、自分は正義に立って、気に食わないものはすべて排除するような私たちの自我意識によって起こされているのでしょう。親鸞聖人は


さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし(『歎異抄』第13条)


とおっしゃり、また


凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず(『一念多念文意』)


とおっしゃっておられます。

 私たちの自我意識とは、どこまでも善人になろうとし、また自分は善人だと信じています。しかし、仏さまの智慧のまなこで見抜かれた私たちの相とは、「無明煩悩におおわれた凡夫」であり、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもす」る私なのです。

この仏さまのまなこによって我が身を知らされてみれば、いつでも正義に立ち、他を咎めようとする在り方ではなく、社会で起きているすべての事柄が自分を映し出す鏡となり、懺悔の心が起こる以外ないのではないでしょうか。

 この清沢満之師のお言葉が、厳しく我が相を問うてくださっています。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です