掲示伝道(6月no1)

「 傲慢な人の仏法聴聞は 伏せた茶碗にお茶を注ぐが如し 」


「負うた子に教えられ浅瀬を渡る」との諺がありますが、慥かな人格者と表されるような人は、幼子の言葉にも疎かにせず耳を傾けることのようであります。しかし、私たちのような凡人は、少しばかり学問を身につけると思い上がって、人の話に耳を傾けることが疎かになりはしないでしょうか。

 ご法座の席でも「科学をはじめ、あらゆる分野で明るく開かれた時代に、何百年、何千年もの昔に説かれた教えが何になるのか」と、まったく聞く耳をもたないと云った態度を露骨にされる方もおられます。しかし、見方によっては現代ほど人間性が劣化し、ますます混迷する社会を迎えている時代もないように思われてなりません。そうであるなら、今こそ仏法聴聞の要請される時代はないのではないでしょうか。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です