掲示伝道(6月no3)
「 ひく脚も 称うる口も 拝む掌も 弥陀願力の不思議なりけり 」
「牛に引かれて善光寺参り」との諺がありますが、自身を省みて、私利私欲の汚れきった塊のような此の私が、清浄無垢であられ、凡ての苦悩する衆生を一途に救わんと願われる仏さまを、この汚れきった口が、汚れきった手が、どうしてみ仏のみ名を称えたり、み仏の御相を拝むことなどできましょうか。
しかしながら、このような汚れきった身にもみ仏の大慈悲のみ心がお届けくださればこそ、このような汚れきった身のまま仏さまのみ名を称し、御相を拝ませていただくことができるのだと思われてならないのであります。
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