掲示伝道(9月no1)

自己に執着すればするほど、人は真の自己を失う。

 自己をなくせばなくすほど、人はその人自身になる」ミヒャエル・エンデ


 自分という存在に執着し、いつでも自分の思い通りに生きたいと願いのが私でしょう。でも、その「自分、自分」といって握りしめている自分とはどのような存在なのでしょうか。

 仏教では我々の存在は「諸行無常(あらゆる存在は常に変化しており、移ろいゆく)」であり、それゆえに「諸法無我(あらゆる存在に永遠不変の実体、我はない)」と教えます。それは私たちの存在が「縁起(あらゆる存在は縁によって起こっている)」的存在であるからです。

 そのような私の存在の真実を見失っているからこそ、私たちは迷い苦しむのです(一切皆苦)。ミヒャエル・エンデは、そのような私たちの在り方を「真の自己を失う」と言っているのではないでしょうか。

 仏教はそのような私の相を教え、救い遂げようと私たちに届けられています。「私、私」と握りしめている我が思いを知らされ、破られてこそ、どのような自分であっても、どのような境遇、環境にあろうとも、私を私として本当に引き受けて生きていくことができるのでしょう。そのことをミヒャエル・エンデは「その人自身になる」とおっしゃっているのではないでしょうか。

 私という不可思議なる存在から目をそらさず、教えを依り処として生きることにおいて、はじめてそのような歩みが始まっていくのです。また、それこそが仏さまの、いのちそのものの願いなのでしょう。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です