掲示伝道(11月no1)
「自分の凡夫性に 気づかないものは、他人の凡夫性を許せない」狐野秀存師
よく私たちは凡夫ということを「私は凡夫ですから」と、自己弁護のように使うことがあります。おそらく、すぐれた人間ではない、情けない人間ですからと、へりくだっておっしゃっているのか、何か間違いを指摘されたりしたときの言い訳のように使われているのでしょう。
しかし、親鸞聖人は凡夫という存在を『一念多念文意』という仮名聖教のなかで、
「凡夫」というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず
とおっしゃっておられます。
このような自己認識が私たちのなかにあるでしょうか。こういう一面を持つものが私だと言っているのではありません。「ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」ですから、このような心しか持ち得ない存在が私だと言っているのです。
また、親鸞聖人は他者に向けてこのお言葉をおっしゃっているのではありません。阿弥陀さまより知らされた凡夫としての我が身を表白しておられるのです。
他者の「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おおく」という相はよく目につくものです。そして、その他者に対して腹を立て、許せないのが私です。そのような私の相を狐野秀存先生は、私自身が自分の凡夫性に気づけていないからだとおっしゃいます。その我が身の凡夫性を知らせるはたらきが南無阿弥陀仏のお念仏なのです。
11月9日は当院の報恩講です。是非、有縁の方々お誘い合わせの上、ご参拝ください。
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