掲示伝道(10月no2)
「指を指して人を非難する前に、
君のその手が汚れていないか確かめてくれ」ボブ・マーリー
私たちの眼は常に外を向いていますので、いつでも他者の言動が気になり、自分の思いに叶わなければ、非難し排除しようとします。そのような在り方が、前回のアドラーの言葉のように、常に争いを生むのです。
私たちは煩悩によって心身を常に縛られている存在と教えられます。なかでも根本的な煩悩として「貪欲・瞋恚・愚痴」の三毒の煩悩があります。貪欲とは、貪りの心です。これは、物質的なものに限らず、名誉や地位、愛情にまで及びます。瞋恚とは怒り憎しみの心です。そして、愚痴とは真理を知らない暗い心です。
そのような私たちに対して、親鸞聖人が大事にされました『大無量寿経』では、少欲知足(しょうよくちそく)、和顔愛語(わげんあいご)、恭敬三宝(くぎょうさんぽう)が説かれます。
三毒の煩悩のうち、貪欲、瞋恚の心は人間の反省がある程度及ぶことができます。つまり、貪り、怒りの心を反省し、少欲知足、和顔愛語を心がけようとする心をおこすことはある程度可能なのだということでしょう。
しかし、愚痴だけはそうはいかないのです。愚痴の煩悩を無明とも言います。これは、真理に暗い私たちの在り方ですが、もっとも根深いのは私が無明であるということにすら気付けないということです。
ジャマイカのシンガーソングライターであるボブ・マーリーは「指を指して人を非難する前に、君のその手が汚れていないか確かめてくれ」と言っていますが、非難する前にその私を確かめるということは、どこで可能なのでしょうか。煩悩は私の意志に限らず、沸き起こってくるものです。その私を自分で知ることができないのであれば、どうやって知るのか。
それは、教えに依るしかないのです。ですから、『大無量寿経』では、最後の愚痴の煩悩に対して、恭敬三宝、つまり仏・法・僧の三宝を敬い、生きる中心としなさいと教えるのです。生活のただ中で、教えによって我が身を知らされ続ける歩みにおいてこそ、自他ともに歩んで生きる道が開かれるのではないでしょうか。
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