掲示伝道(7月no2)
「念仏申すということは、
念ぜられている自分のいのちに
出遇うということ」宮城顗師
念仏申すということは、私たちが口に念仏を称えることですが、実はそれは私がしている行為ではなく、阿弥陀如来が私たちに本願を届けるために言葉となって、声となって届けられたものだというのです。
ですから、念仏、つまり仏を念じると言っても、念じる前にすでにして阿弥陀如来によって念ぜられている私がいるということです。念ぜられている私のいのちとはまさに「天上天下唯我独尊」なるいのちでしょう。
私たちはいつでも我が思いに立って、何でも我が物にしようとして生きています。それは、いのちすら私のいのちとして、どう生きようがかまわないとして生きています。自分の思い通りに生きられているときはそれでもいいのかもしれません。しかし、自分の思いに叶わないことに直面した時、自分自身を受け入れることができず、ときには傷つけ、排除しようとするのです。
しかし、阿弥陀如来は「あらゆるいのちはみな平等に尊い存在なのだ。どうかそのいのちの真実に目覚めてほしい」と私たちにはたらきかけてくださっているのです。そのはたらき、願いに出遇えたとき、はじめて私の思いでしか受け止められなかったいのちの真実に目覚め、どのような私であっても、それが阿弥陀如来によって念ぜられ、願われているいのちなのだと受け止めて生きていくことができるのではないでしょうか。
0コメント