掲示伝道(3月no1)
「拝むとは 拝まれていたことに 気づき醒めること」高光大船師
「拝む」とは一体私たちにとってどういう行為なのでしょうか。『広辞苑』で調べてみると
① 身体を折りかがめて礼をする。②掌を合わせて神仏などを礼拝する。
② 嘆願する。④下の者が上の者を見る。
とあります。
人それぞれ細かな理由は違うかもしれません。しかし、何か自分の都合を叶えたいという願いを込めて手を合わせているということが私たちの拝むという行為になっているのではないでしょうか。自分よりも勝れた存在に願い事をするかたちが拝むというかたちになっているように思えます。
しかし、「①身体を折りかがめて礼をする。②掌を合わせて神仏などを礼拝する」といった場合の拝むとはそうではないのでしょう。本来、拝むとは相手を尊ぶ相をいうのではないでしょうか。神仏などを礼拝するということは、本来願い事をお願いするためにするのではなく、その存在、はたらきを尊ぶからこそ、私たちは拝むのでしょう。
しかし、高光大船先生は、その私たちが拝む以前に、すでにして仏さまより拝まれている存在が私であるとおっしゃっておられます。その拝まれている私の存在に気づき目覚めることこそが、仏さまより私たちに願われていることなのではないでしょうか。また、そのような事実に目覚めてこそ、はじめて私たちにとって仏を拝むということができるのではないでしょうか。
0コメント