掲示伝道(10月no1)
「人間には耳が二つあり、口が一つしかないのは
話す二倍多くを聞くためである」エピクテトス
私たちは、いつでも自分の思い通りに生きたいと願っているため、どうしても聞くことよりも話すことを大事にしていないでしょうか。自らの思いを正義に立て、相手を理論的に説得、屈服させられるかが大事にされているのが「私」の思いです。
しかし、古代ギリシャの哲学者エピクテトスは、話す2倍多くを聞くために耳は2つ付いていると言います。そこには、自らの思いがいつでも正しいという立場に立つ私に「本当にそうか?」という疑問符が投げかけられているように感じます。
武田定光師は「耳が何のために付いているのかと言えば、それは仏法を聞くためだったのだ」(『〈真実〉のデッサン6』)とおっしゃられます。仏法を聞くということは、相手を屈服させるための道具として仏法の知識を身につけることではありません。仏法を、生きる中心に据え「あなたはどう生きるのか?」と問われ、我が身を知らされていく歩みなのです。問題はいつでも「私」です。
「私」がいつでも問題になるということは、そこに必ず「聞く」ということが大事になるのでしょう。浄土真宗の教えは「聴聞」を何よりも大事にいたします。「聴聞」とはどちらも「きく」という意味の感じが重なった熟語ですが、それぞれ違った意味を持っています。「聴」とは「自らが求めて聴く」、そして「聞」は「聞こえてくる」という意味を持っているそうです。
大事なことは、自らの存在を顕かにしたいと仏法を求め聴き、その仏法聴聞の歩みの中で、教えにまでなった阿弥陀さまの願いが聞こえてくるまで聴き続けていくことが何よりも大事なことなのでしょう。仏法聴聞とは、わかったから完結するようなものではなく、いつでも我が思いを中心にしか生きられない我が身、その中で感じる苦悩から目をそらさず、聴き続け、教えられ続けていく歩みであると教えられます。
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