掲示伝道(2月no1)
「生命の事実に触れたことを 自力無劫というのです」廣瀬杲師
「いま・ここ・私」の〈いのち〉を我がいのちとし、何でも思い通りにしようとし、また思い通りになると思っているのが私たちではないでしょうか。しかし、本当にそうでしょうか。私が生きる上で、思い通りになることなど何一つないのではないでしょうか。心臓は私が動かそうと思って動いているものではありませんし、どれだけ生きることができるのか、またどのような人生を歩むのか、すべて私が決められるものではありませんし、すべて私の思いを超えています。そうであるにも関わらず、何でも思い通りにしようとし、〈いのち〉を私有化しようとする我が心が、私を悩ませ、苦しませるのです。
南無阿弥陀仏のお念仏のはたらきとは、「無義をもって義とす」と『歎異抄』では教えてくださっています。私の思いを超えたはたらきによって我が思いを破られることで、〈ほんとう〉の私が明らかになるのではないでしょうか。その私とは、私の思いを超えて、いのちそのものの世界によって支えられ、生かされているいのちです。そのような現に「いま・ここ」に生きるいのちの真実に触れてこそ、私が私を本当に引き受けて生きていける歩みを始めていけるのではないでしょうか。
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