掲示伝道(12月no1)

「 仏に出遇うということは 

    仏に背きつづけている私に出遇うということです 」藤元正樹師


仏法を聴聞させていただくとは、一体どのようなことなのでしょうか。私たちは学び、知識をつけ、物事が明らかになることを通して、よりよい人間になっていくと考えています。自分の思いを叶えるために、仏法を利用しようとして聞くのが私たちの聴聞の在り方になっていないでしょうか? 

しかし、仏法聴聞とはそういうことではないのです。仏さまに出遇うということ、また仏法を聴聞させていただくということは、私の思いを満たすためにではなく、そのような我が身の在り方を知らされるということなのです。

私たちの眼は、常に相対分別の眼です。常に他者と自分とを比べて云々して苦しんでいるのが私たちです。自分のほうが優れていると思えれば優越感に浸り、劣っていると思えば劣等感に陥る。そういった私たちの心を仏教では「慢」と教えます。どちらも慢心であり、私自身を苦しめるものなのです。

仏さまは、智慧の眼でもって、そのような私たちの相を教え、救い遂げようとしてくださっているのです。しかし、私たちは自分の眼がいつでも正しいと思っていますから、なかなかその慢の心を離れることができません。仏さまの教えに本当に出遇うということは、自らの思いで苦しんでいたことを知らされることです。

罪悪深重の我が身を知らされ、決して救われることのない我が身であったことを知らされることと、私の〈ほんとう〉の救いが同時に成り立つのが、阿弥陀さまの救いです。仏法より我が身を知らされ続けていく歩みこそが阿弥陀さまから願われ、南無阿弥陀仏のお念仏が私たちに回向されているのです。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です