掲示伝道(2月no1)

「 春立つや 愚の上に 又愚にかへる 」 小林一茶詠


 新しい年を迎えたと思ったら、もう一ヶ月が過ぎてしまいました。「今年は丁寧に過ごす」と思っていたこともはや忘れ、忙殺されて過ごす日々です。

 この句は小林一茶翁が詠まれたものですが、改めて我が身を教えられるような句であると感じます。

 私たちは、自分で自分のことをよくわかっていると思っていますし、目に見えることだけが真実だと思って生きています。しかし、本当に私たちは自分とはどのような存在なのかわかっているのでしょうか。私たちの目に映ることが本当に真実なのでしょうか。

 清沢満之師は「自己とは何ぞや。これ人世の根本問題なり」とおっしゃいました。我が身を本当に明らかにすることこそが、私においてもっとも大切な問題であるということでしょう。逆を返せば、私たちは我が身について、何もはっきりしていない存在であると教えてくださっているお言葉なのではないでしょうか。

 親鸞聖人は『一念多念文意』のなかで、阿弥陀さまより知らされる我が身についてこのように教えてくださっておられます。


凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず


 このお言葉は、親鸞聖人が阿弥陀さまの智慧の眼によって教えていただいたご自身の相であり、また私たちの相でもあります。しかし、このお言葉を本当に我が身のこととして受け取れない私がいます。阿弥陀さまの智慧の眼によって見出された我が身の相ですから、私においては「その通りでありました」とただただ頭が下がる以外ないのですが、その頭がどうにも下がりません。

 それは、私たちが常に自我の思いに雁字搦めになっているからなのです。この「無明煩悩」とは、真実に暗い存在であるということです。その真実に暗く、煩悩によって常に「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく」生きているのが私たちです。そして、それは「ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と。そういう一面を持った存在ということではなく、無明煩悩によって「常に」そのような我が身であることが知らされます。

 小林一茶翁は、このような親鸞聖人のお念仏の御教えに触れることを通して、我が身を知らされ、またその愚かな身の上に更に愚かなことを重ねる我が身を、季節の改まりに際し懺悔されたのではないでしょうか。

 そして、その我が身を知らせてくださる南無阿弥陀仏の本願に乗託して、我が身を本当に引き受けて生きていかれたのではないかとしみじみといただかれることです。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です