掲示伝道(1月no2)
「 本願力に遇いぬれば 空しく過ぐる人ぞなき 」
天親菩薩は『浄土論』において、
観仏本願力 遇無空過者
(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、)
能令速満足 功徳大宝海
(能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。)
と説かれています。親鸞聖人はこのお言葉を非常に大事にしておられ、親鸞聖人お掛け軸の画讃にもなっているお言葉です。
仏教では私たちの生は「空過(くうか)の生」であると教えます。このことについて、私が教えを受けました竹中智秀先生は、
仏道は「死のない生」ではなく「死のある生」を見極めて、その「死のある生」をどう生きれば生ききり、完全燃焼して「空過の生」でなくなるのか、その事を問う事から始まる。
とおっしゃっておられます。つまり、私たちは頭では「生老病死」の身を生きていると理解していても、その事実から目を背け、「死のない生」を生きているというのです。だからこそ、一生を空しく過ごしてしまうということでしょう。
〈いま・ここ・私〉のいのちとは一体いかなるいのちなのか。そのことを南無阿弥陀仏から問われることを通して、はじめて私たちはこの存在を大切に生きることができるのではないでしょうか。そのことを天親菩薩と親鸞聖人は、私をほんとうに生かせしめている「阿弥陀如来の本願力」に遇うと教えてくださっているのでしょう。
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