掲示伝道(8月no1)
「 解決策がわからないのではない
問題がわかっていないのだ 」
ゲルバート・ケイス・チェスタートン
迷い、苦しみ、悲しみを抱えた時、私たちは何とかそこから抜け出そうと、必死に解決策を探ります。その解決策を探る過程のなかで、私たちはいつでも原因を外に見つけようとし、またそれゆえに他責にしてしまうのではないでしょうか。それでは、不平不満、愚痴しか出てきません。また、そういう思考のなかで解決策を考えても、決して私が抱える迷い、苦しみ、悲しみは解決しないのでしょう。なぜなら、その迷い、苦しみの根本、根底にある問題がわかっていないからです。
仏教はその問題を作り出しているのは、我が思い、つまり私が抱える煩悩にあると教えるのです。決して外に原因があるのではないのです。自分の思いにがんじがらめになり、何でも自分の思い通りにしよう、したいと思って生きているその心が私を迷わせ、苦しめているのです。
科学技術が発達し、いくら便利になり、物質的に豊かになったとしても、私の抱える根本問題は決して解決しません。それはすでに歴史が証明しているでしょう。争いは絶えず、貧困や差別はなくなりません。
そのような状況のなかで、「あいつが悪い、時代が悪い、この国の政治が悪い」等々と不平不満、愚痴ばかりをはいて生きるのか、あるいは自分の思いを通そうと、自分さえ良ければいいという思いによって他者と争い、排除しながら自分を立たせて生きるのか。私たちの思いに立てば、そのようにしか生きることができないのでしょう。
仏さまの教えは、そのような私に対し、本当のいのちに目覚め、私を私として本当に引き受けて生きていってほしいと願ってくださっているのです。
私が抱える迷いや苦しみから目をそらし、自己顕示欲を強め、または不平不満、愚痴ばかりを言って生きるのか、仏さまの教えを依り処として、私を私として本当に引き受けて生きていくのか、私の生き方が仏法より問われているのです。
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