掲示伝道(7月no2)

「本当のものがわからないと 本当でないものを本当にする」安田理深


 私たちの心を仏教では分別心と言います。何でも二つに分け隔てる心です。善悪、優劣、損得、美醜等々と分け隔て、自分の都合の善いものだけを選び取り、都合の悪いものは排除するのが私の相です。

 しかし、その分け隔てたものは、あくまでも我が思いによって分け隔て、レッテルを貼ったものなのです。決して、真実に照らして分け隔たものではありません。そもそも真実は一如とも言われ、分け隔てられるようなものではないのです。

 親鸞聖人は『歎異抄』(後序)において、


善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわこと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします


とおっしゃっておられます。私たちに善悪など分かろうはずもないのです。しかし、その分け隔てている我が思いこそが真実と握りしめているのが私です。その私が作っているのが火宅無常の世界であり、その世界はすべてが「そらごとたわこと、まことあることなき」世界なのです。

 その「そらごとたわこと、まことあることなき」世界を本当のものだと信じ、握りしめて生きているからこそ、いつでも迷い苦しんで生きざるを得ないのでしょう。

 その我が思いを破るはたらきこそが「南無阿弥陀仏」のお念仏なのでしょう。南無阿弥陀仏とは呪文ではありません。阿弥陀さまの願いです。願いが名となって、教えとなって私に届けられているのです。その願いに仏法聴聞を通して出遇い続けていく歩みこそが、私に届けられた南無阿弥陀仏によって願われているのです。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です