掲示伝道(5月no2)

「いのちみな生きらるべし」リルケ


  このお言葉は、ドイツの詩人リルケの

  あたかも牢獄を逃るるがごとく

  人はみな 自己の前を逃れんとすれども

  世に一つの大いなる奇蹟あり

  我は感ず いのちみな生きらるべし、と。


という詩の一節です。

 このお言葉は、私の仏法聴聞の原点である京都大谷専修学院の初代学長であられた信國淳先生が大事にされ、その教えを受けられた先生方から教えていただいたお言葉です。当時、まだ二十代後半だった私には、この言葉とどう向き合っていいのか、よくわかりませんでした。なぜなら、この世の中のどこを探しても、そうはなっていないではないか!?と思えたからです。それは、他者に対してというより、自分自身に対して、そのように思えなかったのです。

 私たちは分別心(分け隔てする心)で生きていますから、いつでも善悪、優劣、美醜、損得云々と、自分の思いを中心に分け隔てて生きています。それはまた、他者にだけに向く眼ではありません。自分に対しても、向けられる眼なのです。

 自分にとっていつでも善であり、優であり、得であれば問題はないのです。でも、人間は思い通りに生きることはできませんから、自分にとって受け入れられない自分になってしまうこともあるのです。時には、こんな自分なんて消えていなくなってしまえばいいのにと思ってしまうことすらあるのではないでしょうか。

 そのような私に対し、いのちそのものから「いのちみな生きらるべし」と、どのような私であっても支え、呼びかけてくださるはたらきがある。そのいのちの呼び声に、リルケは、そして信國淳先生は出遇われたのでしょう。

 そのいのちの呼び声が、南無阿弥陀仏として「いま・ここ・私」に届けられているのです。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です