掲示伝道(2月no1)
「私が願うのではない 私を願っている願いを聞く それを聞法という」
私たちはなぜ仏教を学ぶのでしょう。よりよく人生を生きる知識を学ぶためでしょうか。それとも、私が感じている苦しみを取り除いてもらい、安らかな生活を送るためでしょうか。いずれにしても、私たちは仏教と向き合う際に、自分にとって都合のいいものを求めて聞くということがあると思うのです。
仏教は私たちの願いを叶えるために聞くものではありません。仏教を聞いても、私たちが日頃求めている地位や名誉や財産は得られません。
では、何を聞くのか? 仏さまの願いを聞くのです。私たちが仏さまにお願いをするのではなく、仏さまが私たちを願っているのです。その願いを阿弥陀さまの本願と言います。阿弥陀さまはどのようなものであっても、常に私たちに「その平等の尊いいのちに目覚めよ!」と願いをかけてくださっているのです。そして、その願いが私たちに届くようにと「南無阿弥陀仏」となって私たちに届けられているのです。
ただ南無阿弥陀仏と称えていればいいというものではありません。南無阿弥陀仏とお念仏申すなかに、仏法聴聞を通して、南無阿弥陀仏にまでなった阿弥陀さまの願いを聞き続けていくことが大切なことなのです。
ですから、仏法はわかる、わからないではないのです。頭ではなく、身で聞くのです。いまこの瞬間も我が身に願い続けられている仏さまの願いを、仏法聴聞を通して共に聞いてまいりましょう
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