掲示伝道(11月no2)

風に聞け いずれか先にちる木の葉」夏目漱石


 この詩は漱石が修善寺で生死の境をさまよい、一命を取りとめたとき、今まで漱石の胃病を診ていた病院の院長が息をひきとったときの気持ちを詠んだ詩だそうです。死ぬはずの自分が生きて、生きて、患者の命を救うべき院長が死んだ。漱石はそのとき諸行無常の理を実感したのではないでしょうか。

 平均寿命というものがいつから公表されるようになったのかわかりませんが、日本人男性は八十代前半、女性は八十代後半と言われているようです。私たちは、このような年齢を一つの基準として生きているのでしょう。ですから、百歳で亡くなれば大往生、若くして亡くなれば可哀想ということになるのではないでしょうか。

 しかし、私たちが生きるいのちは、生死一如のいのちなのです。清沢満之師は


  生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり。


とおっしゃっておられます。

 そのようないのちを生きているにもかかわらず、私たちはまだまだいのちが続くかのように思い、生きています。そのような私たちの生を仏教では空過の生と教えます。有限の尊いいのちの事実を見失い、「いま」を失っているからこそ、あっという間に空しくときを過ごしてしまうのです。

 お念仏の生活のなかに諸行無常の身であることを教えられ、「いま」を回復してこそ、私たちは我が身を本当に引き受けて生ききることができるのではないでしょうか。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です