掲示伝道(6月no2)

「本願の名号は 生ける言葉の 仏身なり」曽我量深師


 「本願の名号」とは南無阿弥陀仏のことです。南無阿弥陀仏とは呪文のように受け取っている方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではありません。本願の名号、つまり阿弥陀如来の「どのようなものもみな、平等に救い遂げる」と誓い願われた本願が私たちに届けられるようにと名前となったものなのです。

 ですから、南無阿弥陀仏とは私たちに「真実に目覚めよ」とはたらきかける阿弥陀如来なのです。しかし、その阿弥陀如来とは一神教の神さまのような存在ではありません。曽我量深師は、「如来は我なり。されど我は如来に非ず。如来我となりて我を救いたもう」とおっしゃっておられます。このお言葉をどういただくかは非常に難しいことではありますが、いのちそのものの本来のはたらきこそが阿弥陀如来と言えるのではないでしょうか。そのいのちに私たちの思いは背いているのです。背いているからこそ、阿弥陀如来は本願の名号となって、常に私たちに「真実に目覚めよ」とはたらきかけてくださっているのです。

 ですから、南無阿弥陀仏とはただ称えればいいのではありません。念仏申すことを通して、阿弥陀如来の本願、いのちそのものの願いを私たちが聞き続けていかなければならないのです。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です