掲示伝道(8月no2)
「ご縁をいただいて生かされているのでなく、
ご縁が私となって生きているのだ」小川一乗師
お釈迦様は縁起を説きます。つまり、私たちの存在は縁によって起こっている、成り立っているということです。しかし、それは私という確かな固定化した存在がまず存在し、そこに縁がくっついて今の私があるということではないのです。私の存在はあらゆるご縁によって成り立っている、つまりご縁そのものであるということなのでしょう。ですから、その無料無数のご縁がすべて離れれば、この身のいのちを終え、いのちのはたらきの世界に還っていくということなのではないでしょうか。
私たちが「ご縁をいただいて生かされている」と言ったとき、そこには必ず良縁、悪縁をえらびます。良縁をいただいたときだけ、「ご縁をいただいて生かされている」と私たちは言うのではないでしょうか? 良縁はほしいが悪縁は排除するというのが、私たちが考える縁でしょう。そうではないのです。縁に良いも悪いもないのです。それを分別するのは私の思いです。どのような縁であっても、あらゆるご縁によって私という存在が「いま・ここ」の私となっている。それが私の事実なのです。そのことをありのままにいただけないからこそ、私たちは苦悩するのでしょう。
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