掲示伝道(7月no1)

「 物を受くるに心を以てし 法を受くるに身を以てす 」金子大榮師


日頃、私たちは多くのいのちをいただいて、生きております。ですから、食事の際に心を込めて感謝し、「いただきます」「ごちそうさまでした」と言うのでしょう。それはそのいのちを心で受け取るということでもあります。

では、仏法をいただく、聴聞するといったときにはどうでしょうか。よくよく私の仏法聴聞の在り方を振り返ると、まさに我が思いで受け取っているのです。我が思いで受け取るということは、自分の都合で聞き、受け取るということです。

善導大師は

  経教はこれを喩うるに鏡のごとし

とおっしゃいました。仏さまの教えは我が身を映し出す鏡のようなものだとおっしゃるのです。

にもかかわらず、私は我が身を教えられるどころか、自分の都合で聞き取り、その教えを自らのモノサシとして、いよいよ我が身を飾りあげたり、自他を分別する道具にしてはいないだろうか? そんなことをこの金子先生のお言葉は突きつけてきます。

常に我が身にその事実を突きつけてくるものが教えです。ということは、教えというものを頭で、自分の都合で聞いていては教えが教えとしてはたらかないということです。さまざまな苦悩を抱えて生きるこの我が身のところで、生活のただなかで身を以て聞いてこそ、仏さまの教えが響き自らを本当に引き受けて生きていくことができるのではないでしょうか。

真宗大谷派 霊苔山 金相寺

親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」のみ教えを共に聞法するお寺です