掲示伝道(12月no1)
「 極楽は西方のみかは東にも 北道さがせ 南にあり 」一休禅師詠
浄土真宗では阿弥陀如来の浄土往生を説きますが、その阿弥陀如来の浄土について説かれている『仏説阿弥陀経』には、
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。
その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。
(『仏説阿弥陀経』『真宗聖典』P126)
と説かれています。
しかし、浄土とは実際の場所を意味するものではなく、真理の世界を表しているのです。では、その真理の世界はなぜ「西方」にあると表現されるのでしょうか? このことについて金子大榮師は、それは「死の歸する所」(『二河白道』金子大榮著)だからであるとお示しくださっています。つまり、私たちがこのいのち終えて帰っていく場所を、日が沈む西の方角にあると表現したのではないでしょうか。
ですから一休禅師は、極楽浄土とは我が身を離れてはないということで、「北道(来た道)さがせ 南(みな身)にあり」と詠われたのでしょう。
仏道とは自覚道です。仏さまの教えとは、常に我が身の事実を突きつけ、真実に目覚めよとはたらきかけてくる教え、はたらきです。ですから、阿弥陀如来や極楽浄土というものも、決して御伽噺として説かれたものではありません。常に我が身の問題として仏法と向き合うことこそが大事なことなのです。
0コメント